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三河万歳




「安城の三河万歳」は「別所万歳」といわれ、400余年の伝承と歴史を持ち、1975年には 愛知県指定の無形民俗文化財になっています。

1 万歳のおこり
別所三河万歳のおこりは、次のように伝えられています。
今から500年ぐらい前、玄海という僧侶が今の別所(当時は長谷部郷の一部)に 来たことから始まったといわれています。この玄海は、熱田薬師寺の座主で「あじゃり」という 高い位をもつ僧侶でした。
しかし、この熱田薬師寺は、応仁の乱(1467年~1477年)で三河国の守護、 細川成之の部下である細川道仙によって焼き払われてしまいました。こまった玄海は、 矢作長谷部郷(今の岡崎市西本郷町といわれている)に逃げ、土地の有力者であった 上地刑部大夫の家で世話を受けることになりました。玄海はもちろんのこと多くの人が 応仁の乱で苦しんでいました。そこで玄海は、国々の平和、人々の幸福のために、 各地を巡り歩き、万歳の舞を教えたり、人々の前でおどったりしてみんなに楽しみを与えました。

このころの三河は、吉良氏が東条側と西条側にわかれて争っていました。 また、各村の在地武士も両方にわかれて争っていました。武士がこのように戦いをしていたので 農民は大いに困りました。家を焼かれたり、田畑の稲や野菜がめちゃめちゃにされたこともありました。 また農家の若者が、足軽や人夫として戦いにかり出されたり、食物をとられてしまうこともたびたびありました。
このように戦いで苦しんでいる農民にとって、万歳の舞はとても楽しい娯楽でした。また、万歳を舞えば、 戦いもなくなり、人々の家に幸せがくるということで、大勢の人々がおこなうようになったということです。 人々に万歳を伝えた玄海は、安祥城主松平親忠より15町四方(225ヘクタール)の土地をもらい、 別所村と名づけました。
2 万歳の発展
別所村の人々は、今までの寺の仕事ができなくなったので玄海から教えられた万歳を勉強し、万歳師として活躍しだしました。
万歳師は、矢よけのご祈祷など、武士が戦場でけがをしたり死んだりしないようにおいのりをしました。 松平清康が豊橋方面で戦いをした下地合戦では、小坂井村で、また、広忠の井田の戦いでは、能見でともに矢よけのご祈祷がされました。
このように万歳師は、戦場にまでついていき、武士の武運長久のお守りをしたのです。寺の仕事からはなれた万歳師は、 新しく勢力をのばしてきた松平氏と結びつき、松平氏の保護者として発展していきました。
家康の岡崎入城、その後の東条、中島、上和田の戦い、さらに遠江(静岡県)、駿河(静岡県)の戦いにも、 必ず万歳師による矢よけのご祈祷がされています。万歳師は松平氏の発展とともに活動しただけでなく、 徳川家康が東三河、遠江、駿河へと勢力を伸ばしていくにつれ、活動範囲を広げていきました。
このころ万歳師を統率して活躍した大行日吉法印の墓は、今も西別所町の墓地にあり、花が供えられ大切にされています。 また日吉法印の木像もお堂にまつられ、村の人々が大切にお守りしています。(安城東部小学校編 「ひらき」より)
3 安城の三河万歳の由来
万歳というのは、太夫と才蔵の二人が一組になり、才蔵の打つ鼓に合わせて、 太夫がめでたい詞を歌いながら舞う祝福芸の一つである。民俗芸能に属し、 無形民俗文化財と称されている。

安城に万歳が伝えられたのは、室町時代、応仁文明年間のことで、尾張の熱田薬師寺の僧玄海が、 戦乱を逃れて長谷部郷(現岡崎市西本郷町、安城市東・西別所町一帯)へ移り住み、 国家安寧万民和楽の祈祷をなし、舞楽を奏したことが言い伝えられている。 玄海は安祥城主松平親忠の依頼に応じ、矢除けの祈祷、万歳祝言などをし、長谷部郷に225ヘクタールの 土地(現東・西別所町)を与えられたという。

玄海の後を継いだ大行日吉法印は、安城松平氏に臣従し、矢除けの祈祷や万楽祝言を行い、万歳師を統括していった。 徳川家康の関東移封以降、万歳師一党は、関東17か国の巡回の権利を獲得し、関東一円に旦那場を広げていく。 江戸中期以後、万歳師は土御門家の支配下に入り、陰陽道職となった。万歳といえば、三河万歳といわれるようになるのも この頃からで、江戸時代を通じて代表的な芸能に成長していった。

明治初期には、万歳師の旦那場巡行がむずかしくなる中で、「三羽鶴の舞」 「七草の舞」を演じるようになる。これを旧風という。明治20年以降、万歳師は神道職となり、 万歳協会を設立する。この頃から「天の岩戸開きの舞」を演じるようになり、これを新風と称している。 神道三河万歳もしくは別所万歳の名で呼ばれるのはこれである。別所万歳は最盛期を迎え、 昭和6年頃には、20余組が関東地方(東京・栃木・群馬・埼玉・千葉)へ、外に静岡・長野へと巡行する。 ところが昭和20年以後は数組を残すのみとなった。
一方、明治期より、福釜・榎前を中心として御殿万歳・三曲万歳を演ずる万歳が起こり、盛んになっていった。 なかでも御殿万歳(地、柱立、舞い)は、七人一組(太夫一人、才蔵六人)の舞台万歳で、万歳といえば御殿万歳の ことをいうほど数多く演じられるようになった。三曲万歳は、鼓に三味線・胡弓を加えた舞台万歳で、 「忠臣蔵三段目」「神霊矢口の渡し」など芝居を演ずるものである。

昭和42年、三河万歳保存会を結成し、つづいて神道三河万歳の伝授を受け、安城の三河万歳へと発展した。 昭和50年6月16日、御殿万歳4種(三羽鶴の舞・七草の舞・天の岩戸開きの舞・地、柱立、舞い)、 三曲万歳14種が愛知県の無形民俗文化財に指定されている。

サルビー